長い間入院していたばあば(母方の祖母)が、今週の月曜日、日付が変わるほんの10分前に亡くなってしまいました。肺炎に罹っていたのですが、最近は安定していて、次の日に気管切開の手術をする予定でした。本当に急変で、ずっと付き添っていた叔母ですら、最期の時には立ち会えなかったそうです。
私が最後に顔を見たのはちょうど1週間前の金曜日で、巡回してきた看護士さんに 熱は36.5℃だし、安定してますよー。と言われていたので、まさかこれがお別れになるなんてまったく考えず、いつものように手を握って、「ばば今日は帰るねー。また来るから、頑張ってよー。」と声をかけて帰りました。
土日は実家の用事で夜まで出ていて、月曜は退社時間が遅くて病院にはよらずに帰りました。帰宅途中には叔母から電話がかかってきて、明日気管切開するかもしれないことや、気管切開でどうにかなることはないよ なんて話し、明日は病院に行くから といって電話を切りました。そしてその数時間後にしずかに亡くなってしまいました。
ばあばはあの時代の女性にはめずらしく、師範学校をでて先生をしたり、じいじと結婚してからはじいじが興したパン屋さんを一緒に切り盛りし、学校給食に卸すくらいの規模の工場まで成長させて、ずっと働きづめでした。(私の小学校にも卸していて、社会見学で見に行ったり、配達のおじさんに忘れ物を届けてもらったりしていました。)
結局このパン屋さんは震災で工場がほぼ全壊したこともあってたたんでしまいました。工場と一緒に住居も全壊してしまったので、その後は別に住んでいた叔父の家に身をよせることになり、そこで少しずつ行動が制限され、できることがどんどん少なくなる中じいじが亡くなり、80才まで入院したことがなかったばあばが長いこと病院で過ごすようになっていきました。
高齢なのでほんの少しは覚悟していたことですが、私はばあばはずっと生きていてくれるような気がしていました。実は8月に入ってからも、2度ほど 今夜呼吸停止してしまうかもしれないとお医者さんに言われていました。それでもお見舞いにいくとしっかり持ち直してくれていたので、そんな調子でいくらか波はあっても亡くなることはない、と思い込んでいたのです。
亡くなってしまってからはこんなに早く会えなくなるならもっと会いに行けばよかった、叔母のいない時の独りの病室のベットはどんなに寂しかったことだろうと考えては泣いてしまいます。

母には妹と弟がいますが、結婚したのは母だけだったので、孫も私と弟の二人だけでした。私は初孫だったことに加え、近くに住んでいたので一人でもしょっちゅう遊びに行ったり、泊まったりしていて、本当に可愛がってもらいました。あんなによくしてもらったのに、なんて薄情な孫だったのだろう。そんなことばかり考えています。

唯救われたのは、棺の中のばあばの顔が、とても綺麗だったことです。みんな言っていましたが、シワひとつなく、すべての苦しみから解放された、天女様のような、すごく綺麗な顔でした。
この世ではすごく心配性で、私や他の家族のことをずっと気にかけてくれたばあばだったけれど、むこうではじいじや他の家族と一緒に穏やかに過ごしてほしいなあと思います。

 

いままでやさしいまなざしで見守ってくれて本当にありがとう。そしてお疲れ様でした。
私はもう心配かけないようにしっかり生きていきます。